一理ある。でも、それがすべてではない。

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今ある状況を見ていて、ふと思うことがある。

「私たちは、何を通して世界を見ているのだろう。」

人は誰でも、自分の経験や価値観というフィルターを通して物事を見ている。

例えば、

  • PHPに脆弱性が見つかった = WordPressは危険、もう終わり
  • 生活が苦しい = 総理が悪い
  • 親が言っている = 正しい
  • 有名な人が言っている = 正しい
  • 権威ある人が言う = 信用してしまう
  • AIが答えた = 正しい
  • AIが作った = 信用できない

どれも、そう考える理由があるのかもしれない。

実際に問題があることも、正しい部分があることもある。

でも、それだけで物事のすべてを語れるだろうか。

一つの出来事、一つの言葉、一人の経験。
その一部分だけを切り取って、すべてを理解したつもりになっていないだろうか。

今はAIの進化とともに、さまざまな情報や意見が飛び交っている。
声の大きい人の意見が、いつの間にか世の中の正解のように扱われることもある。

でも、声が大きいことと、正しいことは別。

多数派が正しいとも限らない。
少数派が正しいとも限らない。

そして、自分自身も例外ではない。

自分が見ている世界だって、これまでの経験や思い込みによって形作られているのだから。

同じ景色を見ても、美しいと感じる場所は人それぞれ。

同じ人を見ても、優しいと思う人もいれば、怖いと思う人もいる。
どちらも、その人が見た一面なのだと思う。

一理ある。でも、それがすべてではない。

だから時々、自分自身にも問いかけてみたい。